昭和45年08月01日 朝の御理解
御理解 第57節
「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」
神を杖につけば楽じゃと。はっきり、おかげを示しておられますですね。ですから、私共が、何時、どんな場合でも、楽じゃというおかげを受けていないとすると、それは、神を杖についていない証拠だと。先ず、先ずそれを悟らねばいけませんよね。ね。神を杖につけば楽じゃと仰る。楽ではない、きつい。楽ではない、情けない。腹が立つ。ね。楽ではない、苦しい。困ったことが続くと。というなら、これは、まだ本当の意味においての神様をまだ杖についていない証拠なんです。
いえもう、神様一本、神様もう、だよりでございますと言うてもです。そこまでの、頼りになる神様に、私共が頂かなかったら、だから値打ちがないということです。ですから(私共は?)ここまでのところの信心が出来たら、第一金に不自由することはないですね。楽じゃと。全ての点に特に人間関係なんか、腹が立つとか、情けないとか、ね。といったようなことも、だからあろう筈はありません。というほどしのです、おかげをうけておる時に初めて貴方は神を杖についておるんだということが言える訳。ね。
ところが、ほんなら、私共の場合は、何時も、困ったことが多い過ぎる。腹の立つことが、情けない思いをすることがある。そこにね、神様をまあだ、いわば、杖についていない。言うならば、神を信じておると言うても、まだ、信じていない自分というものを悟らせて貰うて、いよいよ間違いのない神様を杖につかせて頂くおかげを頂かねばならぬ。金の杖をつけば曲がる。確かに、どんなに頑丈であっても、ね。
やっぱ金は曲がる。これをどんなに沢山お金があってもという風に頂いても良かろうと思うですねえ。沢山のお金のある人は楽かというと、決して楽じゃないです。有れば、あるほど楽じゃないのです。ね。金のために言うならさいなまれ、苦しめられておるという人も有るくらいです。金があるために、ね。ですからなるほど金の杖をつけば曲がる。金だけが頼りにはならないということ。
竹や木は折れると。ね。世の中にはやはり竹のように、すくすくと何にも苦労知らずに伸びた素直な性格の出来ておる人があります。けれどもねほんならそれで、楽かというと、楽ではありません。全てのものに恵まれる心も気立ても、やっぱ素直である。だから楽かというと楽じゃという。やはり神様を信じ切っての生活があって、はじめてその素直さというのが生きてくるのである。ね。
木は折れる。というところは私は、ここ、木は心というから、ね。心の強い人がありますよね。非常に、いわゆる、不屈の精神とでも申しましょうかね。どういうことがあっても、決してへこたれないという、強いいわば気をもっておる人。まあいうなら、強情なということも言えるかもしれませんね。ところがどんなに気が強いと言うてもですね。やはり木は折れるとこう言う。やっぱりね。
そこに神様を信じきっての、生活ということにならなければね、いわば楽じゃという事にはならない。そこで私は今日思うのはね、私共が神を杖につけば楽じゃとおおせられるのに、楽ではないところをです。神様をまだ、本当に杖につききれていないという事を一つ、分からせてもらい悟らせて貰うて、いよいよその神様を杖につけば、なるほど楽じゃというところまでを信心の一つの目指しとさせて貰うて、おかげを受けて生きたいということであります。
夕べ私はお話を聞かせていただいたんですけれども、今久富さんところの、御霊様の式年祭がございまして、そのあとでご直会の席上でした。今日の新聞に昨日だったでしょうかね、鼠が子供をかみ殺したっち言う(はっは)ね。まだ赤ちゃんを鼠がかじって、かじり殺したち言うんです。恐ろしいことですねえ。先日は飼い犬がやっぱり、赤ちゃんを食い殺したち。またその先日は学生さん達が、熊に何人もかみ殺されなさったげなち言う話を私はこの頃テレビを全然見ませんし、新聞を全然見ませんから、非常にそれを分からなく最近の新聞を、ま紙上を賑わせたそういうこれはお話なんですよ。
皆さんはお読みになってることでしょうから、ご承知だとね。ねずみに殺されたり、犬にかみ殺されたり、熊にいわば元気一杯の学生が、何人もしかもかみ殺されたといったようなです、事が有ったというのである。私は信心というのは全てのことが生かされる。まあ言うなら過去とか現在とか、未来とかともうします。ね。現在の助かりが、未来にまでも繋がっていくという助かりでなからなければ、本当の助かりではありません。現在お金はある健康はある。ね。地位もあると。
いかにもなるほど助かっておると、いわば言えませんけれども、まあ助かっとると致しましょうか。けれどもそれが果たして貴方は、その未来がそのまま、助かられると信じられるかと。いわゆる安心の御霊として。未来までもそういうおかげの受けられるという自信があるかない。ね。ですから現在の助かりが未来にまでも繋がる、ね。それは信心よりも他に助かりようはない。
今日私がおかげを受けておる有難いというものが、有り難いのだぁこの有難いが続けられていく、ね。そのこの有難いがあの世にももっていけれると思う所に、未来の安心があると思うです。ね。ですからこれは信心によらなければ頂けることではない。ためにですねために、私はその過去の一切が生かされるというところまで、おかげを受けなければ、現在の助かりということにならないのです。ね。
過去の全てがね色んな過去を持った人があります。ね。けれどもねその過去の全てがね、信心によって生かされてくる。まあこれは。私のことでいうと生まれて此の方そうですね、二十五年前までぐらいは過去が一つも生きてはいなかった。過去に例えば、商売をしておりますから、あれが引っ掛けたと。あれから引っ掛けられとらんなら、今時は楽だけれどもと思うたり、ね。
生まれていわば私は六十日ぶりに火の海の中にあった。蚊帳がどんどん燃えとる中にあったんですからね。ねえ、身体全身まあ言うなら火傷。この顔の傷は、その火傷の傷なんですけれども、本当に自分がそういう火傷をしてなかったら、こんな顔に傷もなかったろうのに。いうような思いもなかったじゃなかった。ね。ところがまあ、これはほんなら生まれて、その商売をさせて頂くようになりました、いわば二十何年、三十年あまりというものはですね。過去が一つも生きてなかった。
ま信心は頂いておっても、生きていなかったけれども、いわば言うならば本当に、こんな信心じゃ駄目だと気付かせていただいて、本当の信心を分からせて頂こうという事になって来たらね。その過去の全てが、みんなおかげである、おかげであると分からせて頂くようになってきた。ね。そらまあその当時、終戦直後、一番悲しいことといやあ、弟の戦死の公報を受けた時でしょう。ね。
そういう、たとえば悲しいことまでがです。私の弟は大作と申しますが丁度、昨日、一昨日が、二十五年の式年祭でございました。親戚家族のものが、本当に紋付袴に威儀を正して久富先生祭主の下に、慰霊のお祭りを仕えて頂きました。両親が涙をこぼして喜びました。御霊がどんなにか喜んでいることだろうと。こういうお祭りを真心込めて、みんなにして頂いて、どんなにか有難いことだろう。もう御直会を頂き終わるまで、母なんかはもうそれこそ、有難涙にね。暮れておるというように喜んでおります。ね。
もう、それを思うにつけさせて頂きましても、私が思うんです。いや弟がその、大作と申しますが、まあ人に物言うように、ね。そこに御霊があるかのように、してお祭りをまあ、仕えるわけでございますけれども、大しゃん本当にあん時、二十何年前は、目の前が真っ暗うなるようにあったと。十年近くも兵隊生活して、もう帰るだろう、もう帰るだろう。もう引き上げの船の、今度の船ではなかろうかと言うて、船の新聞紙上に出るのを待たせて頂いておって、待って待ち受けたものが、あんたが公報だった。
もうそれこそ家族中のものが、神も仏もあるものかと思う位に、家の中が真っ黒になった。けれどもねあんたのその戦死がね。私をしてねこういう信心を奮い立たせたね。おかげでね両親がもう、今日のあんたの二十五年のお祭りをつかえるにあたっては、もう大変な喜びである。又私があの時奮い立ってなかったら、只あの当時商売をしておっただけではこんな真心一杯の、お祭りは仕える事も出来なかっただろうね。
それがまあいうならば心いっぱし、しようと思う事は出来る。私はその時も驚きましたことはね、御直会なんかでももう午後からのですから、夕食をみんな頂いて貰いたいというので、ところが私がその、御直会の席上に出ておる、おご馳走を見て驚きました。もう御直会はもう、人間が頂くとじゃけん、ざっと良かぞと言ったけれどもです。もうそれこそ、本当にご祝儀したごたるおご馳走でしたよ。ね。
まあ、例えていうと、鯛のお刺身がある。鯛のお吸い物であり、もう今頃正月にでも頂かんごたる素晴らしいご雑煮が出とったりね。珍しい。ね。うなぎの蒲焼があり、もう、本当に、これ一重に、御霊様の働き、神様の働きを思わず訳にはいけんというように。そら、親戚のものも言っとりましたから、たまがるくらいでした。大しゃんが喜んどろうとこう、言うわけなんです。ね。
そういう例えばその、そういう例えば、お祭りでも奉仕して頂けれるだけの言うならば、ここで言うならばお金なら、お金のことにも不自由しないだけではない。その神様がその事に、伴奏を入れてくださるようなおかげの中に、御霊のお祭りが出来たと。亡くなって、戦死いたしまして二十五年間ねえ。時にあいだにこのように、おかげを受けておるという事はです。ね。例えばなくなって御霊様に、その時は目の前が真っ黒うなるようにあったけれども、ね。そのあんたの戦死は、無駄ではなかった。
みんなのものが、このように奮い立った。そのおかげでここにはいわば、私の信心が、ほんなら確固たる物になったところが、私の周囲に、沢山な人までが助かるようにまでなってきたのだ。大しゃんあんたの戦死は大したことだったよということなのです。ね。そこに私は御霊が助かる。いわば過去二十年前の、悲しかった出来事がです。もう生き生きとして、生きてきておるということです。ね。
今も申しますように、生まれて六十日ぶりに大修行。火の中にあるほどしそれこそ、顔にもこのように見苦しい傷が残るほどのことである。ね。ほんとに、まちっと、器量こん傷でんなかったなら、まちっと良か嫁ごでんもらえるのじゃったかも知れん。なるほどそら、まぁ水谷八重子んごたっとば、貰うたかも知れんですたいね。(はっはは)大体、林長次郎んごたる顔したるとですけん私は。(はっはは)ね。
けれどもどうだろう、私が水谷八重子んごたる嫁ごば貰うとったら、現在の合楽はないです。もうそれこそ今の家内が、一緒になってくれたおかげなんです。それと家内が後で言うんですけれどね、私は見合いするときにこっちのほうから見たけん、私の傷は気が付いとらんと思いよった。ところがやっぱ、ここが一番先気が付いたらしい。ところがそりが非常に魅力じゃったち。(ふっふ)ね。
だから私は傷のおかげで、ほんなら、家内と結婚することが出けたということにもなるのです。してみるとこの火傷が生き生きとして、生きてきたわけです。ね。本当に私がまちっと、すらっとしてですね、スタイルが良うて、もう一寸私がほどが太かったら、ほんとにまあ男ぶりも一段と上がろうにと。私がもし一寸ここに、背が太かったら、私は今どき戦死しておらんです。
私がもう一寸高かったら甲種合格じゃったんですね昔は。私と一緒に甲種合格じゃった人は、皆んな戦死しとります。私が丙種合格であったおかげで、今日の合楽があると言ってもいいのです。ね。信心というものはそういう風に解って来ると、過去の全ての事が生きてきたんです。ね。様々な難儀な問題を掛けられた事もあった。それを本当にありが引っかけとらんならと言う様な事も有ったけれどもそのおかげで貧乏しとる。
貧乏したおかげで、私が現在の信心がでけたという事になるですから、過去が生きてきた訳なんですよね。ね。私はね過去の全てが、そのようにして生かされる、過去の全てが一切がおかげであった、あれも神愛の現われであったと、気づかせて頂くほどしの神様が、ここに頂ける事になったときです。私は、それが、ね。それこそ、楽じゃというおかげの元であったという事を気が付かせて頂いております。ね。
ですから、これからとても、この杖を放す訳には参りません。ね。過去のことの全てが生きてくる。ね。いうなら廃物利用です。もう困った何にもならん。そういう事までが、生き生きとして活かされる。それが信心なのです。というほどしのです、神愛を悟らせて貰う、分からせてもらうところから、この神様におすがりをして、起きてくる事の上に、一切おかげの頂けない事はないと。
その次の58節に「人が泥棒じゃと言うても、ね。乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬぞと。もう腹どんたてよると馬鹿らしゅうなってくる。勿体ないという事になってくる。私は、いつも思うです。もう人が馬鹿にするなら一丁、本当に徹底して馬鹿になろうと。馬鹿にする人の前にはそう思いますね。ね。なめて掛かる人があります。もうそのなめる人には、一つ本気でなめさせるという気が有ります。俺ば、なめとるね、お前は。というとこにはもう、喧嘩が始まる。ね。
ほんとにあの人から馬鹿にされたと言うて歯がいい。ね。その代わりまた反対。人が生き神様のように扱うてくださりゃ、もう、生き神様になりすませれると言う、私はおかげを頂いておるです。ね。だからそこにはもう、自由無碍でしょうが。馬鹿と神様と。ね。そういうね、私はおかげ頂いておくということが、私は大きな心というのじゃなかろうかと思います。豊かな心というのは、そんなものじゃなかろうかと思います。馬鹿にされたら、馬鹿になりきり。神様にされたら、神様になり切れれると言う。
私は人物。ね。はぁあの人は、中々心が大きい心が豊か。と例えば言うてもです、ね。私は信心によって、私共が豊かにならせて貰い、大きくならせて貰えれるという事は、神を杖についておるから、豊かになれるのですよ。ね。それこそ神様を知らない人たちが、如何に私を馬鹿にしてもです、又信の薄い人達が私を如何に馬鹿にしてもです。ね。こちらは神様が相手だ、神様が見ておいで、聞いておいでの世界に生き抜かせて頂いておるのだ。平気で馬鹿にもなれる、阿呆にもなれると言う事。
神を杖につけば楽じゃとは、そういうようなことだと思う。信心神様を分からせてもらい、その神様がです。なら過去の全て一切が、生きてくるということはです、ね。その時その時の、例えば火傷をしたことすらが、背が小さかった事ですらが、神様のご都合であった、神愛の現われであったと、分からせて貰う時に、過去だけではない、これからとてもです、ね。これからとても神様のなされ方の中に、一分一厘間違いのあろう筈はないと信じられるから馬鹿にもなれりゃ、阿呆にもなれる。
または神様にもなれるわけなのであります。ね。私共がいかにも、金光様金光様と口に唱えさせて頂いて、もう神様さえいただいとりゃ、神様さえ信じきっとればとこう神を杖に、いかにもついたようにあるけれども、なるほど平穏無事の時には、いかにもついておる。お参りした時は確かに、金光様は、神に杖についておるけれども、いよいよ馬鹿にされるときには、ちゃんとどこにか杖を置き忘れとるという感じなんです。
そうして(あただに?)で金光様金光様ちいうちから、杖ば探しよるごたる感じです。それでそのこの腹ば治めるとに、半日もかかったち言う人がある。もう三日間このことで苦しんだち言う人がある。三日間杖を捜し求めておるわけですね。それはいつもついておるというところにですね。馬鹿にもなれりゃ、神様にもなれるという事になってくる訳です。ね。例えば、熊とか犬とか鼠になくてもね。
私共が一番、傷つけられたり、殺されたりするのは、人間関係ですね。勿論刃を持って殺すってな事は、先ず滅多にある事ではありませんのですけれどもね。その相手の心でね傷つけられる。心で殺される。心が真っ暗になる時は、もう殺されとる時ですね。歯がゆい時には心が傷つけられとる時ですね。だからその傷つけられんで済む、おかげを頂かせて頂くためにです。いよいよ神様を絶対のもの。
神をいよいよ杖につかせて頂くところのおかげ。これは、本当にそうです。足の悪い人が杖をついておる。足が良くなるともう、杖をつくのを忘れてくると、言うようにですね。私が先日でしたか末永さんに、私が話したことなんですね。七月という月はもうたい変な、教会を上げてのいわゆる、火の出るような修行を皆さんが若先生を始め致しております。だからねもうみんなが、一生懸命で修行の時には、私は神を杖を外しとったっちゃ大丈夫だという。言うならばですね。楽だとこういう。
みんなが一生懸命に修行しとる時に私はもう寝たり、転んだりしとったっちゃ、良かようなものだとね。ところがさあそれは、昨日までで終わったんですけれど、本当の意味での修行はまた、今日からだと私は話したことです。私の修行はそうだと。まあ私がもう、金輪際神を杖についておるとは、外してでもおったらさあ、先生と言うて来たときには、私が金光様、金光様と杖探さんならんごたるこっじゃ、みんなが助からん。
だから私の修行は今日からだとそら思いもする、まあそういう風に話した。はあそんなもんですかなあ。そんなもんだよと。ね。兎に角信者が難儀なときに、一生懸命金光様、金光様と参ってくる間は心配なかと、私が申しました。ね。けどもその信者がおかげを受けて、やれやれという時が、心配な時なんです。はぁあれがおかげ頂いて良かったというて、先生までやれやれち言いよると、ろくなこと無かよと言うて、末永君に話したことです。まあこら信心のデリケートな、その問題ですけどね。
そのように、みんながね本気で金光様を杖につき続けれる、てこそ初めて楽じゃという、皆さんの上にもおかげが受けれれるのです。神様が嘘を教えておられる筈はない。楽でないならばまだ今、神を杖についていないんだ、金やら木やら竹やらをついてるんだと。私はもう一人息子に頼っとる。一人息子に頼っとるからやりそこなうんだ。私はもうあんたに頼っとるよと。
それがあるから、は丁度(脇息きょうそく?)のようなものです。すがっとったばってん、その脇息をちょっと引かれたら、自分が方がひっくり返らんならんじゃない。頼りになるものは、なぁにも無いと知らにゃいかんです。金でも物でもそれは、一人息子で立派な出来の良い息子であってもです。ね。これは四、五年前でしたかねえ、久留米の市の上の方、あの話なんですけど。
それこそ一人息子さんの、非常に出来が良かった。夏休みに大学あの、休みに帰って明日は帰れるけんでと言うて、井筒屋にあのうおみやげ物を買いに行って、帰りに井筒屋の前で撥ねられて亡くなられた。ね。だからそういう事すらが、もうこりば頼りにしとるということが、如何にここに金の杖をつけば曲がる、ね。木や竹は折れるということが分かるでしょうが。
頼りになるものは、ほんなら自分の腕だけだち言うて、そんなら自分の腕だって、実は頼りにはならんのですよ。ちゅうぶが出たら、もうあんた、これいっちょが持てんじゃないですか、ね。だから自分の腕だって、実は頼りになるものは無いです。頼りになるのは、もう神様だけ。と分からせて頂いて、その神様をですから、いよいよ杖につけるところまで、お互い、神様を知らなきゃいけん。分からなければいけん。
体験を通して過去の全て一切が、生きてくるというほどしの、おかげを頂けば、過去が生きてくるのであるから、現在もここに生きてきておるから、助かっておるという事。この助かりならば、未来までにも続いていくところの助かりに繋がるという事なのですから。ね。信心とは過去現在、そして未来までが、ね。助かり続けていけれるという、そういう道を教えられるのが、信心だと、私は思うですね。
どうぞ。